「おおさか文我だより」から抜粋

重箱のスミをつつくコーナー

第15号から

今回は総て「三十石」についてです。お答えは文我さんです。

質問 文我さんは、好きなお噺はとの問いに対して「三十石」とお答えになることが多いですが、何故ですか。演者として、どの場面が演じていて楽しいのでしょうか?

答 何と言っても場面が次々と変わり、最後がドラマチックであり、ファンタジーである。その年によっていろいろな考察が、工夫ができること。又逆に、舟歌が古臭いけれど、普遍性をもった楽しさが有る。相対的に「やった」という感じがしますし、聞き手も「聞いた」という感じが有るのではないかと思います。又、お噺の長短が自在にできるところも魅力の一つです。

質問 この噺は、今後時代とともに理解されにくくなる要素が、他の噺と比べても多いと思うのですが、工夫を加えていらっしゃるのはどの辺の描写ですか?

答 工夫を加えているのはすべてですし、後の時代になるほど楽しみがいっぱいです。たとえて言えば、わからなくなった部分を削り、わかるところを残したということです。

質問 いよいよ下りの船が出るところで、船頭さんたちのかけ声がいろいろと大声で入りますが、その中に、どう聞いても「コワコワコワァ」と聞こえるものが有りますが、あれはどういう語源のかけ声ですか?

答 「早く来い」が「ハーコイ」になり「コイ」の部分が変化していったものです。

質問 それまでのお土産物屋さん達・船宿の女中さん達はみな「京ことば」なのに、船頭さんだけが突然いわゆる「いなか言葉」になるのはどうしてですか。(たとえば、おばあさんをもう一人乗せてやってほしいと頼むときの「おたのき申します」のアクセントなど)船頭さん達だけが、京の人ではないから、というお答え以外の解答を期待しています。

答 船頭さん達のような、力仕事には出稼ぎの方が多かったようです。ですから言葉は、地方出身者ということと、もうひとつは京ことばでは力強さが出せない。いなか言葉の迫力を利用したというところでしょうか。

質問 枝雀師匠のテープの話ですが、船を出す直前に、突然例の「うどん・やー・そーうー」という屋台のうどん屋さんの売り声が入ります。船着き場にうどん屋さんが出ているのでしょうか。文我さんは入れていらっしゃいませんね?

答 うどん屋さんとか、団子屋さんとか物売りが来ていたので、その状況の描写として、師匠は入れておられるのです。

質問 三十石に於て、まだ一度もいわゆる「落ち」のあるさげを聞いたことがありません。もともと「さげ」が無いお噺なのか、それとも「東の旅」のように、長い道中の中の一つの物語で、このあとも続きがあって「落ち」が用意されているのかお教え下さい。

答 舟歌の後で切ることが多いのですが、まだ少し続きがありまして、最後は「権兵衛ごんにゃく船頭が利」というさげになります。これは古い諺で、あえていえば「骨折り損のくたびれもうけ」のような意味で、すでに明治末期でも、解説のいる言葉になっていました。それで今では最後までやらなくなったのですが、私は今の終わり方が「さげ」だと思っています。余情落ち、とでもいいましょうか。

質問 蛇足ながら、最後にもう一つ。後から乗ってきたおばあさんの席は、あのあとちゃんと確保されたのかどうか、文我さんのご見解を伺いたい。

今後の超高齢化社会のわが国としては、重大問題です。

答 確保されたでしょう。船が出て、おばあさんが下ろされた描写がないので、ちゃんと座って大阪までいかれたことでしょう。

第17号から

質問者は上殿さん、答えるのは文我さんです。

今回はあちこちのお噺からの質問ですが、あしからずお答えくださいますよう。

問・はばいの無い(ふたなり・胴乱の幸助など)意味は、幅の無い=値打ちの無い、ということかと思いますが「はばい」の「い」は何なのでしょう?

答・この「はばい」は「はばえ」の変化したモノと思います。大阪ならではの変化かと思われますが「はばえ」は「羽生え」のこと。意味としては、格好悪い、値打ちが無いということだと思います。私自身としては、このような現在では伝わりにくい言葉や言い回しは、雰囲気を壊さない場合は、伝わるような言葉に言い換えるようにしています。

問・かたの悪い(口入れ屋など)

これも「肩身の狭い」と「運の悪い」が一緒になっているかと思いますが、落語独自の造語でしょうか?

答・大阪では肩を、運の意味に用います。肩から運気が出入りするという話を聞いたことがあります。カタがええ、カタがわるいとは、運がええ、運が悪いという意味で使います。

問・ひしおでの茶ぶくさ(崇徳院)の「ひしおで」とは何ですか?

答・「ひしおで」と聞こえると思いますが「ひしおぜ」でして漢字で書くと「緋塩瀬」のことで、緋色の塩瀬。赤い上等の絹織物、上等の羽二重というところでしょうか。

問・「七度狐」の中でキーコが「女の坊さん尼やったら、男の坊さん西宮」というところがありますが、関西圏以外で演じられるとき、通じるのかどうか心配です。他にもいっぱい地名のことで、非常に多く大阪だけに通じる洒落があり、そういうことはどう処理していらっしゃいますか?

答・まず「七度狐」にこのフレーズは本来出てこないのですが、枝雀師匠が過去に数回、本来は阿弥陀池のギャグの使い込みをしておられます。

さて、場所の説明ですが、細かく言っても仕方がないときはとりやめますし、おっしゃるようにわからない地名で、言わなくても差障りのない場合もとりやめます。たとえば三十石の舟を降りてからの、人力車の道順の説明などはとりやめにいたします。かといって、細かいことでも説得力のある場合は、その土地のことがわからなくっても残して言うようにしています。たとえば池田の猪買いの、淀屋橋、大江橋と橋を二つ渡る・・お初天神・・紅卯というすし屋・・十三の渡し、三国の渡しと・・・北へ行くと服部の天神さん、それを尻目にころして行たら岡町、岡町を抜けたら池田・・・という場面は地方ではわからないだろうが、これなしではこの噺は成り立たないと思えば、残すようにしています。又ご質問お待ちしています。

第19号より

質問者・上殿喜美様

答・桂文我師匠

「今回は『延陽伯』についてのスミをつつかせていただきます。但し、今回の質問は、スミではなく、重箱のフタくらい大きな疑問ですので、よろしくお願いいたします。

問・幼名「鶴女」と呼ばれていた人が、何故「延陽伯」というような中国人みたいな名前になったのでしょうか。実はこれは三十五年くらい前から胸につかえていた疑問で、この際是非つかえをとってスッとしたいと思います。

答・何故?という疑問はおっしゃるとおりなのですが、これは縁起の良い名前になったということです。延→縁、陽→良う、伯→掃くのしゃれになっている、めでたい名前なのです。良い縁、そして掃き清めると申しまして、清い。この女性の将来に幸多かれと言う願いがこめられた名前ではないでしょうか。

問・この女の人は、言葉が難しいという設定で、これが大いに笑わせる要素ですが、彼女の言う言葉の中で、次の発音はどんな字ですか?

「コアクゴメンアレ」の「コアク」

「キンタラントホッス」の「キンタラン」

「センジツセンダンニイッテマナバザレハ」の「センジツセンダン」

答・演者によって微妙に違う言い方になるのですが、はっきり申し上げてわかりません。米朝師匠にもお聞きしましたがわからないということです。長い年月の間に少しずつ言葉が変わったのかもしれませんし、始めからわからない言葉だったのかもしれません。今となっては調べようがないのです。古語辞典も調べたのですが・・・。

問・これぐらい別嬪さんで二十三歳という若さで、お公家さんの家に行儀見習いにまで行っていた人が、どうして言葉が難しいくらいのキズで、こんな男のところへ抵抗も無くお嫁入りするのですか、この不自然さを落語家さん達の中では、どう自分に納得させていらっしゃるのか。殊に文我さんは納得せずには語れないお人だと存じますが。

私としましては「納得のいかないコーナー」を新設していただいて、そのナンバーワンの候補にこのことをあげたいと思う位です。家も汚なそうだし、本人も汚なそうだし、お金も無さそうだし、品は無いし、男前でも無さそうだし、私なら二十二どころか八十五歳でもここへはお嫁に行きませんけれど!(文我さんも文ちゃんを、ここへはお嫁に行かせないでしょう)

答・ごもっともですね。しかし世の中には、訳のわからないことですすんでいくことが結構あるのではないでしょうか。何でこういう二人が、夫婦が、コンビがというのが。とりあえず二人の間では納得しているのであるから、それはそれでいいのではないですか。そういうことってあるのではないですか。もしおかしいというのなら、どうでしょう、この仲立人について考えてみませんか。おかしいのなら、この仲立ちするおっさんを責めてみませんか。新しい展開が見えてくるかもしれません。

問・これは枝雀師匠に伺うべきことかもしれませんが、弟子として責任の一端を担って頂きたくお尋ねいたします。

主人公の男が銭湯の入り口で、大きなヌカ袋を投げ込むところがあります。師匠は確かに「ドッボーン」とおっしゃいますので、(それも毎回)湯船に放り込んだとしか思えないのですが、それにしては湯船の中の客の反応が不自然です。このところは文我さんはどういうふうになさっていますか。

答・私自身は延陽伯をあまり演じないのですが、このところは不自然には感じないのです。実写をあまり重んじすぎると、肝心の焦点がぼけてしまう。ここは物語の展開として後の盛り上がりを期待するところなので、実写説明やら、ここだけのイメージが固まってしまうことを恐れ、この程度の印象に留めておこうという、かえって工夫かと思います。

問・私は、私の知る限りのお噺の中で、実は「代書屋」の松本留五郎氏が、一番のアホだと思っていたのですが、よく聞いてみると「延陽伯」のこの男も相当なモノですね。「八五郎坊主」の八五郎もこの分類では、上位にランクされると思いますが、文我さんは、この三人では一番のアホは誰だと思われますか。もちろんいうまでもなく、「心より愛を込めて」です。そして最後に、この男の職業を教えてください。

答・アホとはどんな奴をさすのかと考えますに「愛すべきスカタン人間」「まじめにやっていくが、はずれていってしまう奴」私はこのように思います。そこでこの三人を考えますに、この三人はコント人間である。普通の人より少し騒々しい。ギャグ満載人間。そちらの部類かと思われます。では私の愛すべきアホはと問われれば、「不動坊」に登場する「ユーさん」ビンを持たされて、アルコールを買うよう言われたのに、買ってきたのは「あんころ」。角の餅屋のおっさんを困らせながら、ビンにあんころをつめて帰ってくる。これなんかは、一生懸命やっているのにスカタンの方に向かっている。これがわたしの愛すべきアホの姿かと・・。それここの男の職業ですが、長屋に住んでいる「てったい職」今で言うフリーター、強烈に毎日する仕事があるわけではない。特定の職種は決まってなく、色々なことに誘われ、或いは頼まれて日銭を稼いでいる。というところではないでしょうか。

こんなところで納得していただけましたでしょうか。

(今回も盛り上がりました質問コーナー。さて皆さんの愛すべきアホはどんな噺のどんな奴ですか。是非教えてください。勿論勝手な理屈をつけて。アホ特集を組みたいと思います。大々的に。)

第23号より 番外編

さて、皆さん。いつもの名物コーナー「重箱のスミをつつく」なのですが、今回は多くの方の御意見を先に聞いた方がおもしろいで、ということに、文我さんと私・松尾の間で決まりましたので、質問者の上殿さんには誠に申し訳ないのですが、皆さんにまずは問うてみたいと思います。

それは何かと申しますと、落語の中に出てくるお金のこと、その値打ちについてです。今のお金に換算したらいくらぐらいなのか。それを知っておくとより深くそのお噺を納得して聞けるのではないか、ということです。

さぁ、それでは次の八つのお金について皆さんのご意見をお聞かせ下さいませ。もし理由があればそれもお書きいただけると、幸いです。

・「持参金」での持ち回る二十円

・「船弁慶」でキーコが仰天する三円

・「口入屋」で丁稚が番頭さんから取る十銭

・「首ちょうちん」の上かん屋の払いの二十五銭

・「質屋蔵」の帯の四円

・「貧乏神」での借金のコツとされる二十五銭

・「高津の富」の富くじ代の一分

・「高津の富」の時代における千両

これについて、皆様方から思うままに「それは何ぼ」と寄せて下さい。実は私も大変気になっています。特に「船弁慶」の三円はずーーと気になっています。どうかこれぐらいを教えて下さい。お願いいたします。

 本編

さてもう一つ、上殿さんから質問があります。

問・「蔵丁稚」の丁稚さんは、度々それも道頓堀というような一流の芝居小屋の切符が買えたのでしょうか?そのころは、食べさせてもらって着せてもらって、後は年二回の小使い銭が丁稚さんの収入でしたから、お使いに行ったときの

お駄賃や、得意先の人が、時にはくれる臨時収入を入れても、アメ玉が買える程度ではなかったかと思われます。とても片岡仁左衛門の出るような舞台は、見られないのではないでしょうか。

文我 答・ごもっともでございます。というしかないでしょう。ということなのですが、一つの考え方として、おそらくこの丁稚さんは芝居小屋の関係者、特に木戸番に可愛がられていて、フリーパスを勝ち取っていたのではないかと。大阪で言う「ごまめ」扱いになっていたのではないかと思います。お店一統で芝居見物に行ったりしても、芝居のことをよう覚えているし、時には子供ならではのおもしろい見方で芝居の批評をしたりして、小屋の大人達に可愛がられ、そんなに好きやったらいつでもおいでと言われていた、そんなことではないかと思うのですが。いかがなものでしょうか・・・。

24号より

 番外編

さて、皆さん。いつもの名物コーナー「重箱のスミをつつく」なのですが、今回は多くの方の御意見を先に聞いた方がおもしろいで、ということに、文我さんと私・松尾の間で決まりましたので、質問者の上殿さんには誠に申し訳ないのですが、皆さんにまずは問うてみたいと思います。

それは何かと申しますと、落語の中に出てくるお金のこと、その値打ちについてです。今のお金に換算したらいくらぐらいなのか。それを知っておくとより深くそのお噺を納得して聞けるのではないか、ということです。

さぁ、それでは次の八つのお金について皆さんのご意見をお聞かせ下さいませ。もし理由があればそれもお書きいただけると、幸いです。

・「持参金」での持ち回る二十円

・「船弁慶」でキーコが仰天する三円

・「口入屋」で丁稚が番頭さんから取る十銭

・「首ちょうちん」の上かん屋の払いの二十五銭

・「質屋蔵」の帯の四円

・「貧乏神」での借金のコツとされる二十五銭

・「高津の富」の富くじ代の一分

・「高津の富」の時代における千両

・「花筏」の徳さんの、身代わりを勤める日当の二分

これについて、皆様方から思うままに「それは何ぼ」と寄せて下さい。実は私も大変気になっています。特に「船弁慶」の三円はずーーと気になっています。どうかこれぐらいを教えて下さい。お願いいたします。

ということで、次の二名の方からご意見を頂きました。すばらしい考察だと思いますので、じっくりとお読み下さい。そして、又感想などお寄せ下さいませ。お願いいたします。

前回の「重箱のスミをつつくコーナー」への一考察 大東市 島博志

少し資料を集めましたので、考察してみたいと思います。

昔のお金の値打ちと言うのは時代背景によりなかなか難しいのですが、一応、円・銭は明治35年前後に、両・分・朱は江戸時代後半〜幕末と時代設定をしました。そして物価倍率と生活実感(年収比率等)とから検証推定して見ました。

映画館入場料  明治33   10銭 平成10  2,000円 2万倍

そば(かけ)   明治37   2銭 平成10   400円 2万倍

大工手間賃   明治36   85銭 平成10  17,000円 2万倍

〈明治36 大工年間200日就業で170円:平成10 300日就業で510万円〉 

建設日雇い賃  明治36   40銭 平成10  8,000円 2万倍

銀行員初任年棒 明治36   420円 平成10  400万円 1万倍

高等官初任年棒 明治36   600円 平成10  360万円 6千倍

帝国劇場最低席 明治45   15銭 昭和62  3,000円 2万倍

以上の事から約2万倍として先ずは

持参金     20円は 40万円 ただし年収費実感では80万円位か?

船弁慶の割り前 3円は  6万円 今どき船出して芸者付き散財は無理か?

上かん屋 25銭は5,000円 但し酒一杯半程と鰊1本かじりかけ、後はただだか

            ら、5,000円は高すぎる。サービス料込みで2,500円。

借金のコツの25銭は 5,000円 これも2〜3,000円の方が成功率は高いだろう

質屋蔵の帯 4円は 8万円 質札で4円なら実際は15万円位か?

丁稚さんの10銭については、松下幸之助さんが10歳で丁稚になり小遣いとして5銭をもらったとき、初めて持つ大金であった。1文でアメ玉が二つ買えたその50倍の5銭は、寂しくて毎晩泣いていた丁稚がなかなくなるほどの価値があった。ということからして、現在の子どもの5,000円から1万円に匹敵するのではないでしょうか。

次に1両=4分=16朱=銀60匁=米1石=銭4貫(4000文)の関係から、米1石(140kg)=10万円=(@715円/1kg)=1両、1分=25,000円となって、千両は1億円となりますが、実際は10億円ぐらいのショックだったかも知れません。昨今のジャンボ宝くじは3枚約1,000円で1等前後賞併せて1億5千万円となり、15万倍です。1部が千両では4千倍ですが、もし現代の倍率に引きなおすと25,000円の15万倍で37億5千万円ということになります。高津の富は大きな夢の話ですが、銀座「三愛」の地価は明治30年に坪当たり300円が、昭和62年には何と50万倍の1億5000万円になってます。多分バブルの時は百万倍の3億円を超えていたのでは無いでしょうか。いやはや物の値打ち金の値打ちは難しいですね。

最後に丁稚さんが大御所の出る芝居を見にいけるかと言う問題ですが、明治36年歌舞伎座の正月興行の桟敷席観覧料が5円50銭、とてもこんな席には入れませんが、当時も有ったのではないでしょうか、天井桟敷に近いところで、一幕立ち見席というのが、戦後も有りまして私も独身時代2回程行きましたが、かなり手軽な値段でした。結構通な人たちが来られているようでした。多分明治の後半頃でも30銭未満ぐらいで見ることができたのではと思います。

独断と偏見が長くなりました。失礼の段お許し下さい。

川崎市 大竹正史さんより 

上燗屋の二十五銭は、千円位と思います。ざこばさん演では、酒一杯が十銭。今屋台だと四百円前後です。今でも屋台で酒2杯位なら千円が妥当でしょう。ただこの計算では五円の仕込杖が二万円になり、杖が安すぎます。

酒の原価が半額として、並等酒一合が五銭程度になるのは大正元年〜五年頃で、

その頃の大工の手間賃が一日一円十五銭前後、豆腐一丁一〜二銭、かけそば三銭前後です。かけそばは安いですね。

口入れ屋の十銭は、三百円位と思います。

米朝さん演では、揚げ昆布五銭、おなごしの給金は五円/年(約四十二銭/月)で白粉代に満たないとなっています。月にどの位の白粉を使用するかはわかりませんが、月に一個を使うとすれば、白粉一個(三十〜五十グラム)が四十銭前後なのは、大正十五年〜昭和九年で、その期間豆腐一丁四〜五銭、かけそば八〜十銭ですから、揚げ昆布五銭を考えると時代はあっていると思います。すると、丁稚がもらう十銭は、豆腐換算で二百四十〜三百円、そば換算で四百〜五百円になり、まあ三百円と言うところでしょうか。

ちなみに、松鶴さん演では、おなごしの給金は7円/年でした。

質屋蔵は、八千円位でしょうか。

「米朝落語全集」第四巻では、手仕事二十五銭、酒一合十六銭を十四銭の悪い

方、元値の六円帯を三円で質入れとなっています。

酒一合の価格換算ですと、十四銭が二百円に相当するとして三円は四千三百円位になります。しかし、酒の値段で年代を推定すると、大正十年前後だろうと思います。その期間、豆腐一丁四〜六銭、かけそば十〜十五銭、大工一日の手間賃は二円九十二銭〜三円五十三銭です。豆腐(一丁百二十円)換算で六千〜九千円、そば(四百円)換算で八千〜一万二千円です。大工の手間賃で考えれば安すぎますが、まあ、八千円位と言うところでしょうか。

なお、過去の物価は、「値段の風俗史」(朝日文庫)を参考にしました。

26号より

名物コーナー・・・・

さて、多くのご質問をいただきました。まずは長崎県佐世保市ハウステンボス町、大阪生まれの大阪育ち、ちょっと前よりハウステンボス暮らしの粋なお姉さま上殿さんからの質問

問 「寝床」の旦那さんの年齢が、考えれば考えるほど不詳です。話しぶりや、内容から相当な年齢と思えますが「ごりょんさんは、ボンをつれて、お里へお帰りになられました」というセリフがあるので、そう年寄りでもないようです。おいくつぐらいなのでしょうか?

答 演者の年齢で変わってくるのではないでしょうか。旦那とは言うけれど、人生五十年の時代、そんなに年寄りではないでしょう。特に私が演じている場合は私の実年齢と思っていただいてよいかと思います。

問 同じく旦那さんの年齢ですが、「蔵丁稚」でもやはり「ボンのお守り」という丁稚のセリフから、まだ三十代と思われますが、その割には、丁稚に対する言葉が年寄り臭いのです。この旦那の年齢も知りたいのですが・・・

答 三十代でも、年輩のような言葉遣いをする人もいてますし、言葉遣いで判断してはいけない。ただ昔から、松鶴師匠や米朝師匠の十八番であるだけに、この両師の演じる旦那像が定着しているのも事実です。でもまぁ、そんなに年寄りではないと思います。

問 「船弁慶」の喜六の職業は何ですか。清八とのやりとりから、家にいての手仕事のようですが、これが判った方が「かみなりのお松」が帰ってきた後の喜六の怯える様子が頭に描きやすいので、教えてください。答 家の中で手仕事で作業する下駄屋です。

問 「蛇含草」の登場人物二人の関係が判りません。おもちを勝手に食べるあたりからの雰囲気で、どきどきして不安になってくるのは私一人ではないと思うのですが・・・あの二人は上下関係にあるのでしょうか

答 まず古いつきあいである。しかし上下関係はないと思う。まぁ、少しの年齢差があって、少しの生活環境の違いがあってというところかと。丁寧語を使っているのもそのあたりの関係でのことだと思われます。

続きまして電子メールでいただきました。新潟のミルクさんです。

松尾様、個人メールは初めまして。

久しぶりに「文我便り」を読みましたら、なんか「たらちね」と「三十石」の話しで盛り上がっていました。

それで、もう私の聞きたい「軒付け」については、終わってしまったでしょうか?もしタイミングがよければ、あるいはよくなくてもかまわなければ、軒付けに出てくる鰻の茶漬けについて、うかがわせてください。

えっと、私は一昨年、枝雀さんで「軒付け」を初めて聞いて、しばらく「鰻の茶漬け」という単語が耳から離れなくなってしまったんです。

それで、鰻の茶漬けってどんなものだろうと、くまはちMLで尋ねてみたのですが。もうひきこもごも、ものすごくいろんな答えがありました。名古屋の「ひつまぶし」の話しも、当然出てきました。いいやもっと素朴なものではないかという意見、それから、名古屋では喫茶店に「鰻と珈琲あいますよ」という看板があるし、どんなものが鰻の茶漬けか、未だに分かりません。ちなみに私のすむ新潟市のある鰻屋さんには「鰻雑炊」というメニューがありましたが、あまりに高いので、食べるのを迷っているうち、なんとメニューから消えてしまいました。文我さんは、どんな鰻の茶漬けを想像していらっしゃいますか?

答 これは米朝師匠も枝雀師匠も言っておられるのですが、鰻の佃煮をご飯にかけてのお茶漬け。私たちもそういうイメージを持っております。ただとても不思議なのは、いきなり噺の中に「鰻の茶漬け」が登場すること。おそらくこれは、「鰻の茶漬け」が異常にはやった時期に誰かが新しい試みとして入れたのではないかと思われます。

続いて池田市石田敬子さんより「代書」についてのご質問です。

「代書」に登場してくる人物ですが、松本留五郎であったり、桂春団治では河合浅次郎になっていて、二代目の本名を使っています米朝落語全集では田中彦次郎となっていて、米団治の本名でしょうか、又、速記録によると太田藤助になっていて、これも又どこからきた名前?と大きな悩みになっています。ズバッと正解をお願いいたします。

答 太田藤助はよくわかりません。田中彦次郎は字の確認が次の一字で済むので、という理由で使ったのであろうと思われます。河合浅次郎はおっしゃるとおり二代目の本名です。枝雀師匠が使われる松本留五郎は、たしか先祖に松本姓の方がおられたと言うことを聞いたような気がしますので、それに親しみやすい、緩和材料となる留五郎という名前を付けて使いだしたのだと思われます。この枝雀師匠の代書に出てくる「生年月日」のくすぐりですが、ある旅興行で何気なくポッと出たのが最初で、何遍か使っているうちに、だんだんエスカレートしてきて、現在の型になりました。こんな噺はほかにもたくさんありますので、又の機会に・・。