「文我さん、ネタについてのつぶやき」

    《落語百席プログラムより》

=その20=

「初天神」

私(文我)も、いつの間にか三人の子持ちとなりました。小六(長男)・小三(次男)・三歳(長女)で、家にいると結構賑やかで、いや、喧しいというのが事実です。最近、事に思うのは、落語に登場する子どもたちは、本当にかわいらしく、憎たらしく、ませていると言うことです。勿論、どの子どもにもそれらしい要素はあると思いますが、世の中のそれらを落語に出てくる子どもたちが多く含んでいるように思います。子どもが登場する落語は数多くありますが、この「初天神」はその中でもピカイチに有名。親子の関係だけではなく、この親子を取り囲む環境や、出来事がほのぼのとしていて、誠に暖かい一席となっています。爆笑落語ではありますが、そこには大阪独特のペーソスが根底に流れているように思うのは、私だけではないはずです。

「後家殺し」

このネタは今となっては大変珍しい演目となりました。何せ、浄瑠璃を語る部分があり、お奉行ものであり、噺のない用がかなり複雑であるという、三重苦を背負っているようなネタなのです。しかし、その中身は現代の創作落語では、とても作り出せないような雰囲気と内容の濃さを持っています。長年、このネタは手がけたいものの一つと思っていましたが、なかなか手が出ず、故・三遊亭円生師のテープを聴かせていただくに止まっていましたが、一昨年前から演出の光明を少しだけ見つけ、上演にこぎつけました。米朝師より数々のアドバイスをいただき、その日の体調や、演技の巧拙はあるにせよ、復活ネタの台本としては上々に仕上がったように思っています。確かにその日ののりより、雰囲気が変わるネタのように感じますし、まだまだ改良の余地は十分にありますが、ぼちぼちと時間をかけて、慌てずによりよく仕上げていくネタと考えています。上方色濃厚の、不思議な世界に浸っていただければ幸せです。

「天神山」

歌舞伎のパロディネタも落語にはたくさんありますが、この「天神山」もその一つです。ただ、歌舞伎では考えられないような、「けったいな人」が、主人公として登場いたします。以前から言われていることですが、このネタは前半と後半で主人公が入れ替わります。噺に一貫性がないようにも言われ、前後の別人を同一人物の如く描くのはおかしい、とのことで改作も試みられましたが、見事に全部失敗でした。つまり人物は変わっても、けったいな人が話を進行させ、そこに不自然さが感じられなければ落語として十分に成立するわけで、妙な疑問の元に、作家や構成者が改悪することは、観客や演者側から言えばいらぬ事であり、楽しくなる改変と言うこととかけ離れた所業でしょう。

落語百席Vol.28プログラムより

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